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 私的な経緯を公開することに些かの躊躇がありますが、「なぜミャンマーですか?」と問われることも少なからず、あえて掲載しました。 その後(そして、松崎金作はビルマの土になった)多くの人との出会いから奇跡的に彼が埋葬されている場所を探し出すことが出来ました。 地元の長老からここに多くの兵士が埋葬されているとも聞きましたが、戦後60余年日本から慰霊団も遺骨収集団も訪れることはなかったそうです。
写真ブログ 戦争の記憶をご覧頂ければ幸いです


そして、松崎金作はビルマの土となった


私の母の弟、松崎金作さんは大正9年2月に茨城県筑波山麓にある村の農家の長男として生まれた。

太平洋戦争の時に、現役兵として招集されたのは1941年2月、21歳の誕生日を迎えたばかりであった。

千葉県佐倉で約4ヶ月の訓練を受けた後に歩兵第213連隊要員として神戸港より中国戦線に送られ、約1年後にはそのまま南方ビルマに転戦しビルマ戦線で戦い、最後にインパール作戦に参加することになる。

私の生まれた年の1944年7月15日に、バングラデッシュとインドにに国境を接するチン州のシーンという所でマラリアに罹り戦病死したと記録されているが、戦地を彷徨うこと3年余、24歳の若さであった。

太平洋戦争は初めから勝算は疑わしいとわかっていながら突き進んでしまったといわれているけれど、そもそも戦争は冷静な判断下で行われるはずもなく、その時代がそうさせたと思うしかない。

しかし、それにしてもこのインパール作戦については、当時の軍の指導者たちの多くが勝算は無いと反対していたのにも関わらず、たった一人の中将の暴走を止めることが出来ず予想通り大敗を喫したのだが、その中将は自らの非を認めることなく戦後を生き天命を全うしたというのだから、どこからどこまでもがお粗末なものであったのだ。

組織は往々にして理不尽に対して無力なものだが、あえてそれに正義は望まずとも指導者たちにほんの僅かな責任感と、ほんの僅かに判断力があったならばこんな作戦は実行されるはずもなかった。


昭和19年の3月1日から7月5日の作戦終了までの僅か約4ヶ月間で、亡くなった6万人以上の兵の多くが銃弾ではなく飢えと病による戦病死だったそうだけれど、この作戦で命を落とした兵士たちの死を戦死と言ってしまって良いのかとても疑問に思うのだ。
金作さんの所属する弓部隊約17,000名の兵員残存者はわずか2200名であったという。

ビルマの一年はおおよそ乾季、暑季、雨季の三季に分けられ、3月頃から猛暑の暑季が始まり続いて雨季となるが、将兵たちは最悪の季節に最低限の武器弾薬や食糧の補給も受けられずに勝ち目のない戦を強いられた。

勝手な想像をする。
金作さんは頑健な体力と、生きる望みを最後まで持ち続けられた精神力の持ち主だったのではないか、この資質は平和の世なら幸せな人生を築く源であるけれど、この戦場ではとてつもない悲劇を担うことになってしまう。
かれは作戦終了日の僅か10日後に死に果て、その肉体の全てはビルマの土となっていった。

彼の墓碑が両親の墓の脇に建立されている。

「陸軍伍長 松崎金作  昭和十九年七月十五日
 ビルマ チィンドン川ニテ戦死ス」 

名前だけが故郷に帰ることが出来た。


「夜中に靴音がコツコツと聞こえてくると、その足音が家の前でに止まるかもしれない、〜姉さんただいま、今帰ったよ〜 と玄関が開くかもしれないと思うと胸がドキドキするよ」
ほの暗い電灯のもとで幼い子どもに語る母の姿。

そして用心深い母が、戦後しばらく我が家の玄関は弟がいつ帰ってきても困らないようにと夜も鍵を掛けなかった記憶。

この幼き日の思い出が私の心に残っていなかったならば私はきっと平和の大切さを概念として口にしながら本当の戦争の悲惨さにも、金作さんの無念にも深く思いを馳せることも無く過ごしていただろう。


異国の地で果てた金作さんたちや、戦争の犠牲になった人々の悲劇を忘れないで、次の世代に何らかのメッセージを伝えておく事は、幸運にも平和な時代を生きることができた世代の一員の責任ではないかと思うのだ。

孫、子の世代の英知で平和な世界を築いていってほしいと心から祈りたい。


平成17年10月ミャンマーを訪問するにあたりなるべく金作さんが、歩いたであろう足跡を追うことを中心に計画を立てた。

どこの町にも日本兵を悼む慰霊碑がありミャンマーの人々は仏心をもって守っていてくれた。
バガンという仏教遺跡を巡っていたとき、ある僧院の片隅に金作さんが所属していた歩兵部第213連隊の名を刻んだ慰霊碑に出会ったのは本当に驚きと感動だった。
きっと彼の魂が導いてくれたのだと思わずにはいられなかった。

バガンにタティカンという小さな集落があり、ここでも戦闘が行われたと村長さんから聞いた。
金作さんがここで戦ったのかも知れないと思うと目にする全ての風景が胸に迫ってきた。

この集落は今でも大変貧しい。

ここに慰霊碑ではなく学校を建てよう。

微力だけれどこれからミャンマーの子どもたちのために自分のできることをやろう。

それが金作さんがこの世に生きた証となり、母への供養にもなればいいと思う。

                                       平成17年12月 

金作さんが3年半にわたる兵隊生活をどこでどのように過ごしたのか親族の誰もが詳しく知らないでいた。

色々手を尽くし調べた結果、茨城県保健福祉部に兵籍簿が保管されていて依頼すれば調査のうえ、履歴書を作成してくれることが分かったのは平成16年6月のことである。

今回、ミャンマーの訪問で叔父の足跡を追うことが出来たのはこの履歴書のお陰である。

一兵卒の記録がしっかりと残されていたことに驚いた。 混乱の極みの戦場でも、それを記録する責任を果たした人が居たということを知ってほんの少しだけれど救われた気持ちになった。

履歴書の最後にはこう記されている。

昭和19年
自 3月8日   「ウ」号主作戦に参加(インパール作戦)
至 7月1日
  7月2日    ビルマ国「チン」丘陵道標82哩に於い
                 てマラリヤ罹病
  7月15日 兵長 ビルマ国上チンドウエン県シーン患者収
             容所に於いて死亡(戦病死)
    〃   伍長    

※「チン」州は未だに外国人の入境が許されていない。
  (追記)2013年より一部を除いて入境可能になりました。